2008年11月16日日曜日

戒律

当管理人が参加している「コミュニテイ広場」で友人Dさんの「日本がイスラムの厳しい戒律のしたで暮らすことの是非」の日記に多くの賛否の反響があり、私も下記のようなコメントを投稿しました。 「人間の根幹に関わる興味深い議論です。宗教は人々の心の拠り所になりますが、度が過ぎると弊害をもたらします。どのあたりが妥当か?手を合わせたり頭を下げる祈りは、自らを真摯にさせ自己を律する。この程度の信仰で良いのかも知れません。 またこの問題は、「幸福論」という大きな命題につながって簡単には結論はでません。 仏教の戒律は他の宗教にみられるように厳しくありませんが、それだけに社会の一員として法律で定められない社会道徳などのルールを、自戒して規範としなければならずこれが自らに課す戒律でしょうか。 自由な民主社会のなかでは自戒は重要なファクターになります。自己愛を抑制して他人を意識した「礼節、信義、信頼、善意、謙虚」等の言葉に留意しなければなりません。留意「自戒」することが他者「社会、地域、自然、他人」を重んじる「他者愛」につながり、社会に規範となる秩序をもたらすものです。 武士は命より信義、名誉を尊んでいたようですが、これは他者に真摯に対応していたことであり、庶民も他人のことを「人さま」と呼び、人さまに迷惑をかけることを最も恥ずべきことだと考えていた時代がありました。”先生さま”とか”お巡りさん”も尊敬される立場でした。 日本には日本の良いところが多々あり、昔は貴族社会にも庶民にも習い事を尊ぶ風流人が多くいて、その結果日本にはさまざまで豊かな文化が育まれて現在に至っています。「習う」という行動は「祈り」と同じ自らを律する謙虚さの表れです。つまり社会や他人を常に意識し、謙虚に暮らしてきた現れです。何も習うことはないと考えている自己愛者には戒律は無縁なものでしょう。 近年他者を重んじる風潮は廃れて自分に甘い自己愛者が増え、社会の退廃を憂う事態になっています。識者はこの風潮を「活字文化の衰退は国の衰退」「Artがヒトを人間にする」「社会に美しい秩序を欲する美意識の欠如」と文化的衰退を指摘しています。 つまり文化の衰退が自己愛を超越できない精神の貧しい人を増加させているのです。通りすがりに簡単に人が殺されたり、弱者からひったくりする社会に心の痛みや悲しみ、社会の不条理等に怒りも何も感じない我関せずな人「自分さえ良ければと傍観している自己愛者」が増えていることがなによりの退廃です。高齢者の私が下記の信念でおこがましくも草の根で文化を訴えています。1、文化は健全な社会のための潤滑油である2、仕事の定年はあっても社会の一員の定年はない。3、自己愛は結局は自らを滅ぼす愚考であり、  他者愛が究極の自己愛である。4、仏教の「因果応報」の教えで自己愛者は結局は、殺伐とした社会で自分や自分の子孫でツケ払わなくてはならない。5、逆に他者愛者には広く愛する対象があり、その愛を他人と共有したい、知ってほしい、共に愛を分かち合いたいと、愛するものを絵画で描き、愛するものを土で捻り「陶芸」、愛するものを言葉で綴り「エッセイ」、俳句を詠み、キーボード「HP」を叩く喜びがあります。」6、自由社会には厳しい戒律はないが、それだけに個々の自戒が社会の重要な要素になる。

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